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クルド人監督が作ったクルド人の映画。録画したまま気乗りがしなくてしばらく放ってあったのだが、暇つぶしに見始めたら居ずまいを正す気分になった。
舞台は、イラク北部クルディスタンの主都キルクークの荒れ果てたサッカー・スタジアム。サダム・フセイン時代に故郷を追われたクルド人難民が、グラウンドに掘っ立て小屋を建てて住み着いている。この設定は現実のものらしい。
主人公の青年も難民の一人で、弟は地雷にやられて片足がない。役所からは毎日のように、不法占拠だから立ち退くようにと催促が来る。そんな中で青年は、民族宥和のためにクルド人とアラブ人とトルコ人のチームによるサッカーの親善試合を企て、実現に漕ぎつける。
と書くと、ボクたち逆境の中でも前向きに生きてんのよ~、みたいなハリウッド流楽天主義を連想してしまうが、ドラマの運びは決してそうならない。
試合が始まってもチーム同士もめ続け、むしろ民族間の相互不信がより顕わになる。善意の青年は民族エゴに振り回され、悲劇的な運命をたどりだす。
ほとんどモノクロに近い画面の禁欲的な演出がすごい。感情的描写を排し、寡黙な語り口で現在のイラクの、それもクルド人たちが置かれた状況の過酷さを鮮明に浮かび上がらせる。
芝の1本も生えていないサッカー場に毀れた車の残骸が転がっていたり、試合中に突如、放れ駒が走り込んできたり、等々の描写がイラクのいまを生々しく実感させる。
観ているうちに《自転車泥棒》《無防備都市》など、敗戦直後の荒廃したイタリア社会が生み出した名画を思い出した。この《僕たちのキックオフ》という映画も、現実社会の歪みから絞り出されたような秀作だ。甘っちょろい邦題は、まったく内容につり合わない。
午前0時一斉発売でファンが行列って、ほとんど新しいゲーム機かパソコンOSの発売と一緒だね。カルト化している点じゃ、どれも似たようなもんだが。
リマスタリング盤を買ったファンが、ビートルズが近くでうたってる、古いのは遠くにいる、とテレビで話していた。だろうね。それ聞いて、こりゃ買えん、とオレは思った。
いま実は60~70年代のLPを聴き直していて、その情報たっぷり潤いたっぷりの美音に毎日ほれぼれしている。LPでは大体、歌手が身近に聞こえる。楽器の強弱のメリハリが大きい。それに対して90年代のCDは、おしなべて音のイメージが平面的だ。歌手の音像がちんまりと小さく、音楽がダイナミックなはずみに欠ける。
だから「近くでうたってる」ように聞こえるリマスタードCDは、LPの生き生きした音に近づいたと言えるかもしれない。しかし一つ、大きな違いがある。この手のCDは大抵、音がひどく歪みっぽいことだ。
かつて大手のレコード会社は軒並み、膨大なマスターテープの保存スペースに困っていた。だから80年代末にDATが開発されると、これはいいとばかりにマスターをどんどんDAT化して、オリジナルのアナログテープを捨ててしまった。
DATに移すとき、アナログテープ特有のシューシューというヒスノイズがカットされた。それと一緒に音楽信号も一部カットされた。情報が失われたから、90年代のCDはノッペリ平面的な音質になったんだそうだ。
リマスタリングという作業は大体、CDの生気のない音質の改善策である。しかし、失われた情報を回復しようというのだから、かろうじて残った微かな信号を強引に拡大したり、人工的に倍音をつけ加えたりするしかない。無理に無理を重ねるから歪みが激増する。人間の声がキンキンカンカン、耳をつんざくようにやかましくなる。
まあ、ロックというジャンルでは耳に受ける刺激も楽しみの一つだから、歪みの多い方がかえって喜ばれるのかもしれないが、近ごろのレコード会社はオペラやシャンソンでも同じことをやるからねえ。LPをお持ちの方は、間違ってもオークションで叩き売ったりしないよう、お勧めしますよ。
ところで、ソニーが3Dテレビ発表。3Dというと、テレビの攻勢で不振に陥ったハリウッドが、50年代の初めにまずやった。『肉の蝋人形』とか『雨に濡れた欲情』とか、くだらん駄作ばかりですぐ飽きられた。
80年代には、ビクターが開発したビデオディスクのVHDが、どう頑張ってもレーザーディスクに勝てないので3Dを始めた。普通のディスクよりもっと売れず、すぐ消えた。3D映画同様、メガネを掛けなきゃなんない煩わしさがあったからだ。
いずれも苦肉の策ってところが似てますね。今度の3Dテレビもやっぱりメガネが必要というから、まず長続きしないね。
というと、現役時代は粗製濫造のB級監督の典型のようにいわれていたが、右掲書とか、近ごろなぜか再評価の声が高い。で、オレって乗せられやすいタチだから、NHK-BSでやっていた次郎長シリーズの中から《初祝い清水港》とかいうのを録画してみた。ほかのは観てないから、これが出来のいい方なのか落ちる方なのかは分からない。
初めは強引なコジツケの目立つ脚本や、まるでリズム感のない編集に参ったが、辛抱してみていると、なるほど、なかなかムフフな演出である。
チンピラやくざが不始末をして、母と慕う組のアネゴに縛られるシーンが出てくる。アネゴの方も、チンピラを憎からず思ってる。だもんで、二人揃って「好きです」「かわいい」などと口走りながら、わんわん泣いて縛り縛られる。その描写が異様に熱っぽく、かつ長々しい。
アネゴがチンピラの胸に縄を回すとき、背後から抱きかかえる形になる。バーチャル母子の浪花節的表現に見せかけてるが、これって明らかに少年と大年増の疑似SMプレイじゃん。
そのあと、次郎長親分が縄をといてやるのだが、そのときもチンピラを背後から抱きかかえて腕をもみほぐしたりする。こっちはゲイセックスの暗示? やくざの世界って、けっこう多いっていうしさ。
ま、なんですな、性表現にいろいろと差し障りのあった時代は、それなりに工夫を凝らしていて、そこに今の身もフタもない直接的表現にはない味わいが、たしかにありますなあ。
5・15事件当時、チャプリンが来日していて危うく暗殺されるところだったというのは既知の情報だから、この本の主題自体に新味はないのだが、チャプリンをめぐる日本知識人の軽薄さが紙背に透けて見えて、そこがおもしろい。
たとえば作家の高見順は、日本中がファシズムに浮かされていた1941年にインドネシアで『チャップリンの独裁者』を観て、「ドイツの躍進の意味と必然を理解してない」「天に唾している」とコキ下ろした。それが、安保反対の1960年に再見するとコロリ一転、賛辞に変わったそうだ。
そういえば、かつて大宅壮一や花森安治もコメディアンのトニー谷を、ひどく残酷な言説で痛めつけた。そのことを村松友視が『トニー谷、ざんす』に、おっとり品のいい筆致で記している。
『暮らしの手帖』を主宰していた花森なんか、「トニー谷が今後どんな態度をとるか、彼の次の発言に注目している」と、ほとんど脅迫である。
トニー谷は戦後に現れたコメディアンの中で、もっとも反体制、反コンヴェンショナリズム傾向の強い一人だった。毒舌とカタコト英語のギャグで人気を博したが、それは戦後日本のアメリカ一辺倒の世相を鮮やかに戯画化していた。同じカタコト英語を使う長嶋茂雄の植民地根性とは、似ていて正反対である。
こうして振り返ってみると、時流に乗った知識人なんてのがいかに大衆迎合で大勢便乗でいい加減か、改めて実感できますね。
もっとも、いい加減なのはアメリカ人も同様で、『独裁者』には在米ユダヤ人の批判さえあったという。当時アメリカ人は一般にヒトラーのことを「不況を克服した立派な政治家」と英雄視していて、ニューヨークにはヒトラーのファン・クラブまであったそうだ。
世論調査をやるとアメリカ人の9割以上が反ユダヤ主義だったってのに、どのツラ下げてイスラエル支援やイラク占領やアフガン攻撃ができるのだ。
ところで、黒澤の『素晴らしき日曜日』(1947)のラストでヒロインの少女がやる大演説、てっきり『独裁者』のラストのパクリだろうと思っていたら、この映画の日本初公開は1960年なんだってね。するってえと、偶然の一致か。それとも黒澤は業界人の特権で、高見なんかと同じころに『独裁者』を観ていたのかな。
《TOKYO!》の最終試写に滑り込みセーフ。二人のフランス人と韓国人の映画監督が東京を舞台に、日本人俳優を使って撮ったショート3編のオムニバス映画である。ひと月前に観に行ったときは、満員で入れなかった。日本人てホント、外国でどう見られてるか気になるタチなんだね。オレも、その日本人だけどさ。
いちばん面白かったのは、ミシェル・ゴンドリー演出の第1話。場所は別に東京じゃなくてソウルでも上海でもいいようなファンタジーで、考えてみると、ずいぶん悲惨な話なんだが、演出がカラッと乾いて軽く、若い俳優たちもあっけらかんと演技しているので、ケラケラ笑って観てられる。ファンタジーだけど、演出が奇をてらってないのがいい。
逆に、奇をてらいまくりなのが、第2話のレオス・カラックス。この人、《ボーイ・ミーツ・ガール》《ポンヌフの恋人》のころの感覚はとっくにすり切れてるのに、その後何も学ばず獲得せず、自身の老化に目をつむったままマンガやゲームのキャラめいた怪人をダシに必死で若作りしてる。醜悪。主人公に日本人向けの悪態をつかせる趣向も、フランス人らしいヒネったウィットというよりは、薄っぺらなハッタリにしか見えない。
ポン・ジュノ演出の第3話は、まあ悪くないが、引きこもり主題の話に新味が乏しいのが難。しかし、人影が消えて空っぽになった東京の街が与えるインパクトがすごい。こういう発想って、週末の渋谷とか六本木の夜の通勤電車並みの混雑を知ってないと、なかなか出てこないよね。二人のフランス人がアタマでTOKYOをとらえてるのに対して、やっぱ皮膚感覚がオレたちに近いと思った。
話変わって、昨夜の報道ステーション。見応えあったねえ。テレビ向けのデレデレ笑顔で話すマスゾエ某に対して古舘伊知郎、ニコリともせず「舛添さんは、就任時の国民の期待を裏切ったのではないか」。官僚答弁は許さんぞの気迫がビンビン伝わってきた。他の報道番組に、これだけの緊張感はない。
タマゲタなあ、もう。目玉をヒン剥いて大見得切る芝居、歌舞伎のような伝統芸は別として、映画じゃ、せいぜい1920年代のサイレント映画までだとばかり思ってた。《カリガリ博士》とかね。それが日本映画じゃ、50年代にも残ってたんだから。
原節子も久我美子も三船敏郎も、目尻が裂けちゃうんじゃないかと心配するぐらい、ギョロ目を剥いて大熱演。森雅之扮するところの主人公の伏し目がちの演技と、コントラストをつける意味もあったんだろうけどさ。三船なんか、ほとんど目玉が飛び出してしまいそう。
黒澤お得意のドタバタ悲劇の典型ですな。しかし、その誇張的演出が極端化しているため、おのずとキッチュなおもしろさがかもし出される。こういうの、ワタシはけっこう嫌いじゃないね。笑えるから。役者がカリカリ、大マジになればなるほど笑える。
話が飛び飛びのせいもあって(もともとは4時間半あったのを2時間46分に縮めたそうだ)、なんとなく忍術児雷也といったような紙芝居を連想してしまった。昔懐かし紙芝居って、筋はムチャクチャで、誇張的な絵で見せたもんです。そういえば、この映画にも氷上カーニバルのシーンとか発狂した三船が死ぬシーンとか、見た目は行ける場面がいくつかある。
あと、つねにケンカ腰で突っかかってくる女ってのも、当時は新鮮なキャラだったんだろうな。成瀬己喜男作品の焦れったい女たちとは対照的。年中憎まれ口を叩いている東山千枝子なんか、いま見てもリアリティあり。
しかし原節子の黒いガウン姿、どっかで見たことがあるぞと思ったら、分かった。《白痴》の前年に公開された《田園交響楽》のミシェール・モルガンだ。黒澤もパクリをやってたんだ。
伊坂幸太郎、直木賞選考対象を辞退。まだ候補にもなってない段階で、って気はするが、こういうスタンスの人、基本的にオレは好きである。と言いつつ、このところ吉田修一ばかり読んでいる。前にも書いたが、あんまり笑えたから、また書く。《熱帯魚》、知的ギャグがいっぱい。
単細胞で善意のカタマリの若い大工が主人公で、その単純な男が持ち前の陽気な厚かましさで大学教授のセレブ老人に気に入られる――これって、丸っきり寅さん映画のパターンじゃないですか。
実はあのパターン、寅さんシリーズでオレのもっとも嫌いな部分で、権威主義の匂いがする。水戸黄門と江戸庶民の関係を連想してしまう。旧左翼の言う階級闘争って、結局のところ、上の階級に対する労働者の妬みとコンプレックスとあこがれの裏返しじゃん、とか思う。
吉田は同じパターンを使いながら、そのささやかで幸福な善意の関係を鮮やかにブラック・ユーモアに変換してしまう。大学教授=水戸黄門をホモに設定することによって。
主人公の大工はヘテロなんだが、教授の自宅にハンサムな学生が訪ねてきて二人楽しそうに語らってるのを見ると、なんかおもしろくない。で、いちいち教授の言葉尻をとらえて嫌味を言う。その辺り、読んでいて抱腹絶倒である。
吉田も寅さん映画を見ていて、これちょっと違うぞと、違和感を抑えられなかったんじゃなかろうか。時の流れから外れ、コミュニティ内部の濃密な人間関係で成り立つ寅さん的下町って、考えてみると、既得権にしがみつき、順送りの天下りで維持され、改革を拒否する官僚社会とすごく似ている。根っこに偽善がある。そのことに、吉田もたぶん気がついたんだ。
録画したままだった黒澤の《静かなる決闘》を、やっと見る。黒澤自身が回想録の中で、演出しながら感動でガタガタ震えた、と書いている作品だが、めったに見る機会がなかった。テレビでまともに放送されたのは、ひょっとするとこれが初めてかも。セリフに差別用語がゾロゾロ出てくるもんね。
しかしこれ、いくら性欲が罪悪視されてた時代の映画とはいえ、あんまり現実離れしてません? 三船演じるところの、どう見ても30近い男が結婚してないから童貞でガマンしてるって、清潔というより不気味。あたしゃ感動する前に失笑してしまったよ。
そこへもってきて、黒澤映画特有の悲憤慷慨型大熱演と声涙ともにくだる大演説。どこが「静か」なんだよ。《七人の侍》だったか、「ドタバタ悲劇」と中村とうよう氏がコキ下ろしていたが、こういう映画を見ると、もっともだあと思うね。やたら大げさな身振りだけで中身がうつろだもん。
そのあとで見た成瀬己喜男の《あらくれ》の、なんときめ細やかでリアリティに富むことよ。描写が肩を怒らせてないからいい。オレの嫌いな高峰秀子も、ここでは好演。
しかしNHKさんよ、黒澤と成瀬ばかりやってないで、豊田四郎をもっとやってくれよ。特に《甘い汗》(京マチ子が超名演!)の再放送を。DVD出てないんだから。
すでに人気作家らしいね。知らなかった。遅まきながら、右の本を読んでみたら、これがメチャクチャおもしろい。大胆な省略法が効いていて、想像力を止めどなく刺激する。小説の醍醐味だ。
連作6編中5編で語り手を務める青年が、最後の1編で突如、廃人同様の世捨て人になってしまい、主人公の座を弟に譲る。説明はまったくないのだが、なぜかその心理の動きが読んでいてストンと腑に落ちる。すごい筆力である。
すっかり気に入って、他の本もごっそり買い込んだ。ほとんどが文庫化されているので助かる。しかし、初期作品はやっぱりダメ。省略の思い切りが悪いし、もったいぶるかと思えば妙にくどい説明文が割り込んできたりする。
それが芥川賞受賞以後、みるみる上達する。ほめられれば、自信がつく。自信がつくと、眠っていた才能も目を覚ます。同じ都会風俗を扱っても、97年の「最後の息子」と5年後の「パレード」じゃ、読ませる力が段違いだ。
ところで、初期作品中とりわけつまらない「Water」を、インディ系のプロデューサーが作者自身のメガフォンで映画化したんだってね。ロスのホテルで読んで一気に魅了された、というようなことをサイトに書いているが、映画関係者の小説の読み方って、オレとは違ってるんだろうか。
を観ていて、あれっ! 劇中、パリの下町(メニルモンタン)に住む少年がジュークボックスでシャンソンを聴くシーンがあるんだが、そのジュークボックスのディスプレイの中にダハマーン・エル=ハラッシの顔があった。ほんの一瞬しか映らなかったが、ぜったい見間違いじゃない。あの顔は、間違えようたって間違えられるもんじゃない。
Fassiphone盤でエル=ハラッシが復活したばかりだから(日本でも1枚だけ出た)、かもしれないが、メニルモンタンは移民地区のベルヴィルから目と鼻の先だし、この辺りでは彼の歌が忘れられず聴き続けられてきたんじゃないだろうか。
侯孝賢(ホウ・シャオシェン)もエル=ハラッシを知っていたのだろうか。それよりはやはり、スタッフが土地の空気を画面に取り込むために気を利かせた可能性の方が高いだろう。または、現地のカフェにロケしたら、店先のジュークボックスにたまたま入ってた? ともあれ、歌は流れないが、ちょっとだけ映画に親しみが増した。あ、言い忘れたけど、《レッド・バルーン》というタイトル。なかなか風味豊かな佳品です。
ところでイスラエル国内から、シオニズムに根拠なしの主張が出てきたらしいね。「ユダヤ人は民族や人種ではなく、宗教だけが共通点」と。アラブ人も民族ないし人種ではなく、アラビア語を話すことだけが共通点だそうだが、そうすると現在のイスラエルとアラブ諸国の対立ってのは、なんかすごくバカらしいことに思えてくる。
それにしても、こういう説を国内で発表できるだけ、イスラエルは自由なのかなあ。サウジやエジプトじゃ、これだけ政府の公式見解と食い違う言説はまず許されないだろうね。