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ハトヤマの献金問題が内閣のアキレス腱になりそうな雲行きだが、あんまり腹が立たないのは、企業のヒモつきじゃないからかね。これまでの自民系首相があまりにヒドすぎたからかね。
デフレスパイラル再来のいま、アホに税金食われてたまるか。
JOC理事が「スポーツ差別だ」と騒いでるのも語るに落ちるよな。「民主党に……パイプを作って説明したい」だとさ。いままで体育会系がいかに権力ベッタリだったか、みずから白状しちゃってる。ま、自業自得だね。
青木るえかの白洲正子小論に、溜飲を下げる。
「私は白洲正子を嫌っている」
これほど端整で潔いフレーズがあろうか。こういうきっぱりした言い方のできる人の評論は、大体において信用できる。
正子の孫の信哉が書いた『白洲家の流儀』なる小冊子の書評である。したがって作法としては、まずネタ本を紹介し、しこうして青木の批評に言及すべきなのだが、とてもじゃないが本の方は読む気にならない。鼻持ちならない高踏趣味のオンパレードが、読む前から臭ってくる。
目の玉が飛び出るほど高い銀座の寿司屋にウニの離乳食を作らせた、なんて青木が紹介してるエピソード読んだだけで胸焼けするじゃありませんか。嫌いだからこそ読む、と青木は書いてるが、オレはプロの書評家じゃないもん、そこまで誠実になれないよ。
それにしても最近、つまんない本ばかり読まされるよなあ。町田康『宿屋めぐり』と吉田修一『女たちは二度遊ぶ』。駄作とは何か知りたかったら、どっちか読むべし。つくづく愛想が尽きた。
ここ2年低迷してるロッテが、昨夜は1イニング15得点の大爆発だったとか。それも、不振を極める福浦がきっかけを作ったってんだから、ファンなら絶対見逃しちゃいけない試合だった。なのに、昨夜に限ってオレはどうでもいい用事で外出。運命は意地が悪い。
事故で両手を失い、手の移植を受けた男のノンフィクションである。別にとりわけ人に薦めたい本ではないが、中に出てくるエピソードにおもしろいのがある。
この人、移植を受ける前に義手を作る。ところが、ちゃんとサイズを測って作ってもらったにもかかわらず、出来上がった義手は長すぎて、着用すると手長ザルのような姿になった。すると、義手を作った外科病院が、なんて言ったと思います? 腕の方を手術で短く切ったらどうかと言ってきたそうだ。
まさか、と思うでしょ。しかしオレは、ありうる話だと思うね。フランス人なら、それぐらい言いかねない。彼らはとりあえずダメ元で、自分たちの都合を主張する。都合の悪いことは全部、他人に押しつける。そうすることを彼らはデバ(ディベート)だと称する。
こうして押しの強いヤツ、口の達者なヤツが一方的にトクをし、良識を持つ人間、気の弱い人間は一方的にソンをする。だれだってソンをしたくないから、フランス人は相手を言い負かそう、相手に付け入られないようにしようと絶えず気を張っている。
その結果、だれもが他人に心を許さず、社会が常にギスギス緊張しまくってる。世界中でフランス人がいちばん嫌いと常日頃オレが言うのは、主としてこういう理由からだ。
5・15事件当時、チャプリンが来日していて危うく暗殺されるところだったというのは既知の情報だから、この本の主題自体に新味はないのだが、チャプリンをめぐる日本知識人の軽薄さが紙背に透けて見えて、そこがおもしろい。
たとえば作家の高見順は、日本中がファシズムに浮かされていた1941年にインドネシアで『チャップリンの独裁者』を観て、「ドイツの躍進の意味と必然を理解してない」「天に唾している」とコキ下ろした。それが、安保反対の1960年に再見するとコロリ一転、賛辞に変わったそうだ。
そういえば、かつて大宅壮一や花森安治もコメディアンのトニー谷を、ひどく残酷な言説で痛めつけた。そのことを村松友視が『トニー谷、ざんす』に、おっとり品のいい筆致で記している。
『暮らしの手帖』を主宰していた花森なんか、「トニー谷が今後どんな態度をとるか、彼の次の発言に注目している」と、ほとんど脅迫である。
トニー谷は戦後に現れたコメディアンの中で、もっとも反体制、反コンヴェンショナリズム傾向の強い一人だった。毒舌とカタコト英語のギャグで人気を博したが、それは戦後日本のアメリカ一辺倒の世相を鮮やかに戯画化していた。同じカタコト英語を使う長嶋茂雄の植民地根性とは、似ていて正反対である。
こうして振り返ってみると、時流に乗った知識人なんてのがいかに大衆迎合で大勢便乗でいい加減か、改めて実感できますね。
もっとも、いい加減なのはアメリカ人も同様で、『独裁者』には在米ユダヤ人の批判さえあったという。当時アメリカ人は一般にヒトラーのことを「不況を克服した立派な政治家」と英雄視していて、ニューヨークにはヒトラーのファン・クラブまであったそうだ。
世論調査をやるとアメリカ人の9割以上が反ユダヤ主義だったってのに、どのツラ下げてイスラエル支援やイラク占領やアフガン攻撃ができるのだ。
ところで、黒澤の『素晴らしき日曜日』(1947)のラストでヒロインの少女がやる大演説、てっきり『独裁者』のラストのパクリだろうと思っていたら、この映画の日本初公開は1960年なんだってね。するってえと、偶然の一致か。それとも黒澤は業界人の特権で、高見なんかと同じころに『独裁者』を観ていたのかな。
伊坂幸太郎、直木賞選考対象を辞退。まだ候補にもなってない段階で、って気はするが、こういうスタンスの人、基本的にオレは好きである。と言いつつ、このところ吉田修一ばかり読んでいる。前にも書いたが、あんまり笑えたから、また書く。《熱帯魚》、知的ギャグがいっぱい。
単細胞で善意のカタマリの若い大工が主人公で、その単純な男が持ち前の陽気な厚かましさで大学教授のセレブ老人に気に入られる――これって、丸っきり寅さん映画のパターンじゃないですか。
実はあのパターン、寅さんシリーズでオレのもっとも嫌いな部分で、権威主義の匂いがする。水戸黄門と江戸庶民の関係を連想してしまう。旧左翼の言う階級闘争って、結局のところ、上の階級に対する労働者の妬みとコンプレックスとあこがれの裏返しじゃん、とか思う。
吉田は同じパターンを使いながら、そのささやかで幸福な善意の関係を鮮やかにブラック・ユーモアに変換してしまう。大学教授=水戸黄門をホモに設定することによって。
主人公の大工はヘテロなんだが、教授の自宅にハンサムな学生が訪ねてきて二人楽しそうに語らってるのを見ると、なんかおもしろくない。で、いちいち教授の言葉尻をとらえて嫌味を言う。その辺り、読んでいて抱腹絶倒である。
吉田も寅さん映画を見ていて、これちょっと違うぞと、違和感を抑えられなかったんじゃなかろうか。時の流れから外れ、コミュニティ内部の濃密な人間関係で成り立つ寅さん的下町って、考えてみると、既得権にしがみつき、順送りの天下りで維持され、改革を拒否する官僚社会とすごく似ている。根っこに偽善がある。そのことに、吉田もたぶん気がついたんだ。
すでに人気作家らしいね。知らなかった。遅まきながら、右の本を読んでみたら、これがメチャクチャおもしろい。大胆な省略法が効いていて、想像力を止めどなく刺激する。小説の醍醐味だ。
連作6編中5編で語り手を務める青年が、最後の1編で突如、廃人同様の世捨て人になってしまい、主人公の座を弟に譲る。説明はまったくないのだが、なぜかその心理の動きが読んでいてストンと腑に落ちる。すごい筆力である。
すっかり気に入って、他の本もごっそり買い込んだ。ほとんどが文庫化されているので助かる。しかし、初期作品はやっぱりダメ。省略の思い切りが悪いし、もったいぶるかと思えば妙にくどい説明文が割り込んできたりする。
それが芥川賞受賞以後、みるみる上達する。ほめられれば、自信がつく。自信がつくと、眠っていた才能も目を覚ます。同じ都会風俗を扱っても、97年の「最後の息子」と5年後の「パレード」じゃ、読ませる力が段違いだ。
ところで、初期作品中とりわけつまらない「Water」を、インディ系のプロデューサーが作者自身のメガフォンで映画化したんだってね。ロスのホテルで読んで一気に魅了された、というようなことをサイトに書いているが、映画関係者の小説の読み方って、オレとは違ってるんだろうか。
赤坂にあったクラブ、ニューラテンクォーターの元店長が書いた回想録。店内で起きた最大の事件、力道山刺殺を巻頭で書いているが、この章は正直言っておもしろくない。プロレスという男のストリップみたいな見せ物にはガキのころから興味なかったし(だってさあ、初めから勝敗の決まってる勝負を段取りどおりにやるんだから、プロレスってダンスみたいなもんじゃん? それをハダカでやるからストリップ)、力道山が死んだってこっちの生活にはなんの影響もなかったし。
しかしこの回想録、昭和の芸能界裏面史みたいな一面もあって、そこがおもしろい。日本のショービジネスがいかにヤクザや右翼や政治家や、その他モロモロの裏社会とつながっていたか、どれぐらいヤーさまのご機嫌をとらなければ芸能人は生きていけなかったか、よく分かります(いまでも?)。山口組だの住吉連合だの、広域暴力団の幹部を高潔な人だと著者が持ち上げてるのは、かなり引っかかるけどね。売春やバクチやドラッグをつうじて庶民の生き血を吸ってる組織の長の、どこをどう押したら“高潔”なんて言葉が出てくるのだ。
ともあれ、巻末に出てくる勝新太郎の破天荒な行状が圧巻。どう圧巻かはご自分で読んでいただくことにして、ここでは別の本で読んだエピソードを紹介しておくね。
何かの制作発表の記者会見で、壇上の勝新が酒をチビリチビリやっていた。そこで、レポーターの一人が「勝さんは、いつもそんな風に真っ昼間から酒を飲んでるのか」と質問した。すると勝新、こう答えたそうだ。「あ、これはうっかりして、どうも失礼しました。ささ、皆さんにも早くグラスをお配りして」
こういう規格外れの役者バカは、かつての映画界では生きられたが、テレビ業界では生きていけない。テレビは職人ではなくビジネスマンの世界だから。で、テレビがエンタメの主役になった60年代以降、日本映画は没落した。勝新は、その象徴みたいな俳優だった。
ここしばらく松下竜一の《底ぬけビンボー暮らし》を辛抱しながら読んでいたが、半分まで来たところでギブアップ。読んでいて、それはもうアブラ汗がにじんでくるぐらい詰まらない。
この人、環境保護運動の先頭に立ったり、蜂ノ巣城主こと故・室原知幸氏に連帯したり、尊敬すべき生涯を生きた人(04年没)である。なのに、ここに書いてあることは、ひどく小市民的だ。曰く、著書がちっとも売れない、年収が200万もない、小学校時代の同級生に恵んでもらって助かった、等々。これじゃあ売れないよ、松下センセ(と本人が文中で自称している)。
かつて日本が貧しかったころ、新藤兼人とか山本薩夫とか亀井文夫なんていう社会主義リアリズムの映画作家たちが、暗~い映画(《どぶ》《太陽のない街》その他)を見せて、カネを払って観に来る観客たちを暗~い気分にして帰していた。あれって、お互いビンボーでよかったね、ヤキモチ妬かなくてすむもんね、悪いのは政治だもんね、みたいな感覚だったよなあ。いま、あのノリで読まされてもなあ。
しばらく前に買ったものの、仕事に追われて読めなかった本を読む。筆者は30年フランスに在住し、ワールド・ミュージック界ではつとに知られた人だ。さすがに曲にまつわるエピソードや裏話がゾロゾロ。ネットのおかげで情報がグローバル規模で共有されるようになったいまも、こういう生々しい息吹までは創造の現場と物理的に近い位置にいる人でなければ、なかなかとらえられない。
表紙デザインの印象から軽いノリの本かと思ったら、文体は意外にシリアスな正攻法。それだけ本腰を入れて取り組んだのだろう。もっとも、〈恋はみずいろ〉の項あたりに出没する軽妙なギャグは、やっぱりいつもの向風ブシである。
ただ、フランスのポップスが日本にまともに紹介されなくなって、かれこれ30年だから、後半はなじみの薄い曲が多くなる。聴いてみようかと思っても、おいそれとは手に入らない。
それと、曲の裏話は豊富だが、各曲がどんなスタイルで、どんな音楽的特徴を持つか、といったことにはほとんど触れられていないのがちょっと物足りない。もっとも、どの曲も音楽的には救いがたいレベルだから、触れるのが憚られたのかもしれないが。
あと、POPはフランス語じゃ男性名詞だとばかり思っていたら、“ポピュラー音楽”の意味では女性名詞なんだってね。知らなかった。
タイトルの本の元ネタが、犯人の精神鑑定をした医師の供述調書だというので問題になってるらしい。たしかに、医師は患者の病状に関して守秘義務がある。ヒポクラテス以来のモラルだ。おまけに犯人は、未成年だよ。
だけど、この件に関して、朝日の社説はちょっとおかしいんだよなあ。いわく――
「強制捜査の背景には、政治家の動きがある。出版直後に国家公安委員長が『人権への影響を考えると問題』と発言し、法相は『司法制度や少年法の趣旨に対する挑戦的な態度だ』と流出経路の調査を指示した。……こうした動きには、メディアを萎縮(いしゅく)させ、報道の自由を脅かしかねない危うさを感じる」
しかし、10年前の酒鬼薔薇事件で「フォーカス」が犯人の少年の写真を掲載したってんで灰谷健次郎が新潮社と絶縁したとき、この新聞社は一方的に灰谷の肩を持ったんじゃなかったっけ?
違犯行為があれば、捜査をするのは当たり前ではないか。